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ダビデは自分の衣をつかんで引き裂いた。共にいた者は皆それに倣った。
彼らは、剣に倒れたサウルとその子ヨナタン、そして主の民とイスラエルの家を悼んで泣き、夕暮れまで断食した。
サムエル記下 1:11-12
さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。
そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。
すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。
「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」
イエスはお答えになった。
「『人はパンだけで生きるものではない。 神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』 と書いてある。」」
マタイによる福音書 4:1-4
今回からサムエル記下を再読する。
以下感想。
ダビデとヨナタンの関係性は現代人が読むと同性愛を想起させる箇所がある。
本章においてもヨナタンの死を知ったダビデは「あなたを思ってわたしは悲しむ 兄弟ヨナタンよ、まことの喜び 女の愛にまさる驚くべきあなたの愛を。」
*1と歌う。
また、それ以前にも二人の熱い関係性を表現する箇所もある。*2
が、基本的に聖書は同性愛は罪であるとのスタンスで書かれているため、それに対し明文化され異を唱えていない限りは二人の関係性は同性愛のそれではなく、友情、ブラザーフッドと解釈するのが妥当だろう。
2.キリストの予型
本章でダビデに対し、イスラエルの陣営に居たアマレク人の寄留者はサウルの死を告げる。
内容は「もはや生き延びることはできまいと思ったから」自分が瀕死のサウルに止めを刺し、彼の「頭にかぶっておられた王冠と腕につけておられた腕輪を取って、御主人様に持って」*3来たというものである。
これはサムエル記上31章で書かれたサウルの死の描写とは異なるが、*4アマレク人の寄留者は王冠と腕輪をダビデに献上すれば褒美を賜れると思ったのだろう。
このアマレク人の寄留者に対し、ダビデは「主が油を注がれた方を、恐れもせず手にかけ、殺害するとは何事か。」*5「「お前の流した血はお前の頭に返る。お前自身の口が、『わたしは主が油を注がれた方を殺した』と証言した」*6と言い、彼を裁く。
この流れはゴルゴダの丘に向かう前のキリストと群衆を想起させる。*7
3.断食について
本章においてサウルの死をアマレク人の寄留者から告げ知らされたダビデたちは衣を裂き、断食する。
衣を裂くのは悲しみにあることを示す表現だが、衣を裂いたからといって当人が悲しんでいるということにはならない。
ダビデに対しおそらく嘘をつき、サウルの遺骸から王冠と腕輪を剥ぎ取ったであろうアマレク人の寄留者も「衣服は裂け、頭に土をかぶ」*8りダビデの前に現れる。
悲しみ、悼みに伴う外見的な表現はしているわけである。
が、悲しみのために自らの身を苦しめるのであって、自らの身を苦しめるフリをしたからと言って悲しみ、悼んでいることにはならない。
衣を裂く、頭に土や灰をかぶる等の表現だけではなく、断食についても同じことが言える。*9
来月よりクリスチャンは四旬節という断食の期間に入る。
故に断食の本義について考えさせられた。
*1:サムエル記下 1:26
*2:ダビデがサウルと話し終えたとき、ヨナタンの魂はダビデの魂に結びつき、ヨナタンは自分自身のようにダビデを愛した。
サウルはその日、ダビデを召し抱え、父の家に帰ることを許さなかった。
ヨナタンはダビデを自分自身のように愛し、彼と契約を結び、 着ていた上着を脱いで与え、また自分の装束を剣、弓、帯に至るまで与えた。
サムエル記上 18:1-4
*3:サムエル記下 1:10
*4:サウルは彼の武器を持つ従卒に命じた。
「お前の剣を抜き、わたしを刺し殺してくれ。あの無割礼の者どもに襲われて刺し殺され、なぶりものにされたくない。」
だが、従卒は非常に恐れ、そうすることができなかったので、サウルは剣を取り、その上に倒れ伏した。
従卒はサウルが死んだのを見ると、自分も剣の上に倒れ伏してサウルと共に死んだ。
サムエル記上 31:4-5
*5:サムエル記下 1:14
*6:サムエル記下 1:16
*7:ピラトは、それ以上言っても無駄なばかりか、かえって騒動が起こりそうなのを見て、水を持って来させ、群衆の前で手を洗って言った。
「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ。」
民はこぞって答えた。
「その血の責任は、我々と子孫にある。」」
マタイによる福音書 27:24-25
*8:サムエル記下 1:2
*9:何故あなたはわたしたちの断食を顧みず 苦行しても認めてくださらなかったのか。
見よ、断食の日にお前たちはしたい事をし お前たちのために労する人々を追い使う。
見よ お前たちは断食しながら争いといさかいを起こし 神に逆らって、こぶしを振るう。
お前たちが今しているような断食によっては お前たちの声が天で聞かれることはない。
そのようなものがわたしの選ぶ断食 苦行の日であろうか。
葦のように頭を垂れ、粗布を敷き、灰をまくこと
それを、お前は断食と呼び 主に喜ばれる日と呼ぶのか。
わたしの選ぶ断食とはこれではないか。
悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて 虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。
更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え さまよう貧しい人を家に招き入れ 裸の人に会えば衣を着せかけ 同胞に助けを惜しまないこと。
イザヤ書 58:3-7
互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。
実際には何者でもないのに、自分をひとかどの者だと思う人がいるなら、その人は自分自身を欺いています。
各自で、自分の行いを吟味してみなさい。そうすれば、自分に対してだけは誇れるとしても、他人に対しては誇ることができないでしょう。 めいめいが、自分の重荷を担うべきです。
ガラテヤの信徒への手紙 6:2-5
さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。
「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。
あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。
ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。
わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。」
ヨハネによる福音書 13:12-15
ガラテヤ書の最終章。
キリスト教はへりくだりを尊ぶ。神がへりくだり人となったと信ずる宗教だから当たり前と言えば当たり前だが、使徒たちですらへりくだることは難しかった。*1
超個人的な話だが、インターネットでも実生活でも重度障害者以外に対しては死ぬほど偉そうに生きているように他人には見えるらしいので、キリストの説くへりくだりに添った生き方を聖霊に導かれて生きたいなという気持ち。
この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。
だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。
ガラテヤの信徒への手紙 5:1
「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。
あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」
すると、彼らは言った。
「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。
『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」
イエスはお答えになった。
「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。」
ヨハネによる福音書 8:31-34
パウロは、偶像崇拝の異教徒として神でないものに仕えていた、つまり奴隷として生活していたガラテヤ人たち*1が、今度は律法主義という生き方の奴隷になろうとしていると警告する。
行いか、信仰かという対比でパウロ書簡とヤコブの手紙はよく比較されるが、そのヤコブの手紙でも律法を全て守ることは不可能という前提はパウロ書簡と共有されている。*2
キリストの福音は罪への隷属、律法主義への隷属から解放する自由の律法だが、その自由は無論、あらゆる行いや思いに対する自由を意味しない。*3*4
この隣人愛と神への愛という二つの律法をどのようにして生きられるか。
それは神からの賜物である聖霊の導きに従うことによってであろう。*5
*1:「ところで、あなたがたはかつて、神を知らずに、もともと神でない神々に奴隷として仕えていました。
ガラテヤの信徒への手紙 4:8
*2:もしあなたがたが、聖書に従って、「隣人を自分のように愛しなさい」という最も尊い律法を実行しているのなら、それは結構なことです。
しかし、人を分け隔てするなら、あなたがたは罪を犯すことになり、律法によって違犯者と断定されます。
律法全体を守ったとしても、一つの点でおちどがあるなら、すべての点について有罪となるからです。
ヤコブの手紙 2:8-10
*3:自由をもたらす律法によっていずれは裁かれる者として、語り、またふるまいなさい。
ヤコブの手紙 2:12
*4:兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。
律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。
ガラテヤの信徒への手紙 5:13-14
*5:肉の業は明らかです。
それは、姦淫、わいせつ、好色、 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、 ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。
以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。
これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、 柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。
キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。
わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。
ガラテヤの信徒への手紙 5:19-25
時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。
それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。
あなたがたが子であることは、神が、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。
ガラテヤの信徒への手紙 4:4-6
そして更に言われた。
「安息日は、人のために定められた。
人が安息日のためにあるのではない。
だから、人の子は安息日の主でもある。」
マルコによる福音書 2:27-28
子と親をキーワードに律法と福音、パウロ自身とガラテヤの教会、アブラハムとその息子たちであるイサクとイシュマエルについて語られる章。
神とキリスト者の関係性は主としもべにも例えられるが無論それだけではない。
キリスト者は神より「父」を讃美する霊を送られ、それに応じて「父」を讃美する。*1
律法という呪いであり、人を閉じ込めるものであり、監視するものであり、*2罪の自覚しか生じさせない*3ものの奴隷、正しさの奴隷であった人はキリストの福音により、神と親子の関係に入る。
正しさのために人間が存在するのではなく、人間のために正しさが存在するのではないか。
信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視され、この信仰が啓示されるようになるまで閉じ込められていました。
こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです。
しかし、信仰が現れたので、もはや、わたしたちはこのような養育係の下にはいません。
ガラテヤの信徒への手紙 3:23-25
それ以来、神の国の福音が告げ知らされ、だれもが力ずくでそこに入ろうとしている。
しかし、律法の文字の一画がなくなるよりは、天地の消えうせる方が易しい。」
ルカによる福音書 16:16-17
人は何によって義とされるかについて、熱意を込めてパウロは語る。
律法という膨大な正しい振る舞いの体系を常に守り続けることで人が義とされるのであれば、それを行える者など誰も居ないだろう。*1
人が義とされるために緻密な正しい振る舞いの体系を常に守り続けることが要請されるのであれば、その正しさとは人を「監視」し、「閉じ込める」*2ものでしか無いのではないか。
それがどのような正しさの振る舞いの体系であれ、絶えずその体系を守る者など誰も居ないのではないか。*3
罪人である人間が義を生きるのは、自らの力では無く、内に働く御言葉、あるいはキリストの霊による導き無しでは不可能ではないか。*4*5
「あなたたち律法の専門家も不幸だ。人には背負いきれない重荷を負わせながら、自分では指一本もその重荷に触れようとしないからだ。」
ルカによる福音書 11:46
*2:ガラテヤ 3:23
*3:律法の実行に頼る者はだれでも、呪われています。「律法の書に書かれているすべての事を絶えず守らない者は皆、呪われている」と書いてあるからです。
ガラテヤの信徒への手紙 3:10
*4:だから、あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去り、心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。
この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。
御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。
ヤコブの手紙 1:21-22
*5:生きているのは、もはやわたしではありません。
キリストがわたしの内に生きておられるのです。
わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。
ガラテヤの信徒への手紙 2:20
わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。
わたしは、キリストと共に十字架につけられています。
生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。
わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。
ガラテヤの信徒への手紙 2:19-20
イエスは答えて言われた。
「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」
ニコデモは言った。
「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」
イエスはお答えになった。
「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。
肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。」
ヨハネによる福音書 3:3-6
ダマスコ付近でキリストと共に死に、新たに生まれたとも言えるパウロは*1啓示やキリストの霊について頻繁に語る。
本章においても同様である。
一般的には唯一の神の霊に導かれる人というと、どのような時、場所、状況、共同体においても同じ態度を示し、同じ言葉で語り、同じ振る舞いをする人なのかもしれない。
が、パウロは本章において「啓示によるもので」*2十四年ぶりに他の使徒たちと会い、使徒言行録15章に記されているエルサレム会議へ参加する。
そのエルサレム会議においてパウロは「自分が異邦人に宣べ伝えている福音について、人々に、とりわけ、おもだった人たちには個人的に話して、自分は無駄に走っているのではないか、あるいは走ったのではないかと意見を求め」る。*3
また、会議において「彼らは、ペトロには割礼を受けた人々に対する福音が任されたように、わたしには割礼を受けていない人々に対する福音が任されていることを知」る。*4
つまりは唯一の神の霊が働くとき、それはいついかなる状況でも単一の働きをすると言うよりは異なる働きをするのではないか。*5
同じ唯一の神から与えられる賜物はそれぞれ異なるからである。*6
同じ唯一の神から与えられる異なる賜物の働きが、キリストという頭により調和に至るのではないか。*7
*2:ガラテヤの信徒への手紙 2:2
*3:ガラテヤの信徒への手紙 2:2
*4:ガラテヤの信徒への手紙 2:7
*5:割礼を受けた人々に対する使徒としての任務のためにペトロに働きかけた方は、異邦人に対する使徒としての任務のためにわたしにも働きかけられたのです。
ガラテヤの信徒への手紙 2:8
*6:わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っていますから、預言の賜物を受けていれば、信仰に応じて預言し、 奉仕の賜物を受けていれば、奉仕に専念しなさい。
また、教える人は教えに、 勧める人は勧めに精を出しなさい。施しをする人は惜しまず施し、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は快く行いなさい。
ローマの信徒への手紙 12:6-8
*7:教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。
エフェソの信徒への手紙 1:23