聖書通読チャレンジ記録

聖書通読チャレンジ感想文置き場(予定

士師記 17章

このミカという男は神殿をもっており、エフォドとテラフィムを造って、息子の一人の手を満たして自分の祭司にしていた。

そのころイスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に正しいとすることを行っていた。

(中略)

ミカが、「わたしの家に住んで、父となり、祭司となってください。あなたには年に銀十シェケル、衣服一そろい、および食糧を差し上げます」と言った。

レビ人は進み出た。 レビ人はその男と共に住むことに同意し、若者はその息子の一人のようになった。

ミカがこのレビ人の手を満たしたので、若者は祭司となり、ミカの家にとどまった。

ミカは、「レビ人がわたしの祭司になったのだから、今や主がわたしを幸せにしてくださることが分かった」と言った。
士師記 17:5-6,10-13

 

民衆は立って見つめていた。

議員たちも、あざ笑って言った。

「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」

兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、 言った。

「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」

エスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。
ルカによる福音書 23:35-38

 

サムソンの物語が終わり、今回からは補遺。物語は既に状況が開始している段階から始まる。

 

ミカという男は自分の母親から金を盗み、そのことを神の名によって彼女に呪われる。ミカは畏れのためか盗んだ現金を母親へ返し、呪いではなく祝福を乞う。

彼女は戻ってきた現金に喜び、神に対して「このお金は全て貴方に捧げ、偶像を造ります」と誓い、現金全てではなく1/6だけを使用して像を作成する。

また、ミカは神に捧げられるものである筈の神殿を個人所有しており、冒頭で引用したようにレビ人の祭司をいわば現代における教会風結婚式会場に勤める神父風労働者のように雇用する。

 

どこからどうツッコんでよいのか困惑するぐらいにここでは現代的な信仰、人間は神を使用人の如く扱えるのだという信仰が展開されている。

聖職者への上辺の敬意はあったとしても、それは「息子の一人のよう」な祭司からの祝福により自らの精神的満足や、"縁起の良さ"を得るためでしか無い。

 

大祭司が身につける衣装であるエフォド、また今後の展開における伏線にもなる創世記31章に"守り神の像"として登場するテラフィム、主の祭司の一族であるレビ人…

宗教的モチーフは確かに頻出するが、そこには最早神聖さや畏れは欠片も存在しない。

 

士師記の補遺はここからラストまで、徹底的に「自分の目に正しい」ことが神の目にも正しいのだとする現代的な信仰、あるいは信仰無き人間たちによる上辺だけの敬虔さや聖書の物語理解はグロテスクなものにならざるを得ないのではないか。という強烈な問題提起が続く。

 

その意味で士師記の補遺で語られる物語はあらゆる"現代"、あらゆる今、あらゆる"ここ"に居るわたしたちの物語である。